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4月17日(火) [矛盾について(その623)]

 吉本隆明は横超について「生の歩みの果てに死があり、死の奥のほうに無があるという観念のイメージをも組みかえるもの」と言います。娑婆を歩み果てた末に浄土に至るというのではなく、娑婆を「よこさま」に跳び越えると、そこはもうすでに浄土であるというイメージ。
 これは、例えば蓮如の有名な「白骨の御文」に表されている無常観と似ているように見えるかもしれません。「されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」。この感覚はぼくらの身体によく馴染んでいます。元気に生きていると思っていても、いつなんどき死に見舞われるかもしれない、生と死は背中合わせという感覚。これはしかし生死を「よこさま」に超えるということとは全く違う感覚です。
 あの大津波後の石巻や釜石の街のガラーンとして何もない様子をテレビ画面を通して何度も何度も見てきました。ときには震災に遭うまでの活気ある街の様子と、同じ地点から撮影された震災後の映像を並べて見せてくれることがあります。そのようなとき、震災の前と後という時間の流れが消え、写真のポジとネガのように瞬時に反転することがあります。震災に遭うまでの石巻の様子が突然反転して何にもない墓場のような石巻になる。
 ぼくらの生死も同じで、「生の歩みの果てに死がある」のではなく、生の裏側に死があり、死が再び反転して生があるのではないでしょうか。「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」には朝から夕への時間の流れがあります。でも横超の感覚には時間の流れはありません。紅顔の裏側に白骨があり、白骨を反転させればそこに紅顔があるのです。これが生死を「よこさまに超える」ということです。

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