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矛盾について(その624) ブログトップ

4月18日(水) [矛盾について(その624)]

 親鸞の他力思想をひと言にすれば「賜りたる信心」となるでしょう。「信じれば救われる」のでは、信じることが救いの条件となってしまうということ。そのことはもう何度も語ってきましたが、何度語っても語りつくせない、あるいは語り足りない思いがするのは、どのように語ってもなお何かわだかまりが残るからです。
 前に五木寛之氏の『親鸞』に引っかかりを感じたと述べました。繰り返しになりますが、もう一度振り返っておきます。小説の中で、ある人が親鸞にこう尋ねるのでした、「では、その阿弥陀仏の声(『救いにきたぞ』の声です)は、いつでも、だれにでも、きこえるものでしょうか」と。
 それに対して五木氏の親鸞は「いや」と首を振り、こう答えるのです、「いつでも、だれでも、というわけにはいくまい。波間にただようわれらをすくわんとしてあらわれたのが、阿弥陀仏だと、一筋に固く信じられるかどうかにかかっているのだ。信じれば、その声がきこえる。信じなければ、きこえないだろう」と。これはもっともな答えに思えます。こちら側にその声を受け止める下地があるからこそ聞こえるのであって、それがなければ聞こえないだろう思います。
 でも親鸞ならこうは答えないだろうと思うのです。
 「信じれば、その声がきこえる。信じなければ、きこえない」ということは、信じる、信じないはこちらが決めるということです。ある人は阿弥陀仏を信じようと思う、そうすると阿弥陀仏の声が聞こえる。ある人は信じようと思わない、そうすると何も聞こえない。これは「賜りたる信心」ではありません、こちらから与える信心になってしまいます。

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