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4月19日(木) [矛盾について(その625)]

 親鸞の教えの要が「賜りたる信心」にあることは昨日言った通りです。これが崩れればすべてが崩れてしまう。
 さてしかし、阿弥陀仏の声は「いつでも、だれにでも、きこえるもの」だとしたら、もうすでにみんな救われていることにならないでしょうか。そして、もう何をしたっていい、ということにならないでしょうか。実際、蓮如の時代の北陸地方にそのような考えがあったようで、それは「十劫安心」と呼ばれていました。法蔵菩薩の「一切衆生を救いたい」という本願が十劫の昔に成就し、法蔵は阿弥陀仏となられたのだから、もうすでに一切衆生の救いは実現しているのだというのです。
 蓮如はこの考えを厳しく退けています、本願を信じ念仏をもうせば救われるのであって、もうすでにみんなが救われているなどということはないと。やはり阿弥陀仏の声は「いつでも、だれにでも、きこえるもの」ではなく、阿弥陀仏を信じる人にだけ聞こえるということでしょうか。しかし、そうすると、それは「賜りたる信心」ではなくなる…。
 この問題がいかに微妙で厄介なものかがお分かりいただけると思います。それについて吉本隆明はこんなふうに言います。
 「こっちの方が信じてみようかという心の状態になるから、向こう側から浄土の宿主の光明がやってくるのだ、あるいは第十八願の摂取力はやってくるのだ、そう考えるのがごく一般の物事の考え方の基本になるようにおもわれます。(しかし)親鸞は微妙にそうではないいい方をしています。そういう信の心の状態になれる人はどうしてなれるのか、そうなれる人はそのときにもうちゃんと浄土の宿主の光明がその人の所に射しているんだといっています。その人はそのことを知らないけれども、光明は射してきているといっているわけです。」

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