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4月21日(土) [矛盾について(その627)]

 昔、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読んだとき、水俣地方のことばの重さに圧倒された覚えがありますが、同じような思いをもう一度させてもらいました。それは石牟礼さんが水俣の隣町、出水(いずみ)のお寺で、小さかった頃の思い出をしっとり語りながら、親鸞とこの地域との関わりについて述べていることばの中です。
 「『わたしゃあの子に煩悩でならん』とか、『あそこの婆さんな、あの子ばかりにゃ煩悩じゃあが』とか申します。たいがい、祖父母が孫に対する気持ちを評して言ったり、やはり年長者が、血縁ではなくとも、誰かに目をかけて可愛がっているのを申します。…そのような情愛をほとんど無意識なほどに深く一人の人間にかけて、相手が三つ四つの子供に対して注ぐのも煩悩じゃと。人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、煩悩の深い人じゃと肯定的にいうのです。これはどういう世界なのかと常々わたしは思います。ひょっとしてこれは、仏教のいう真理や教義・教学などを、開祖たちが命をしぼるような苦行をして到達したいと願った世界を、庶民たちはひょいと乗り越える状態ではあるまいかと考える時があります。」
 ふつう「煩悩が深い人」というのは否定的な意味です。少なくとも、このことばのどこかに気恥ずかしさが漂っているのではないでしょうか。ところが「わたしゃあの子に煩悩でならん」と言うところには、煩悩にたいするおおらかな肯定があります。突きぬけたような包容と言いましょうか。そのことを石牟礼さんは、庶民たちは仏教の一番奥深いところを「ひょいと乗り越え」ているのではないかと表現するのです。「ひょいと乗り越える」という言い回しは「横超」を思わせます。ひょいと横っ飛びに乗り越えている。

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