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4月22日(日) [矛盾について(その628)]

 ぼくはあるカルチャーセンターで親鸞について語っているのですが、ぼくより年長の方々の前で親鸞の思想はどうのこうのと「えらそうに」語る自分をそらおそろしく感じることがあります。一方では、お金と時間をつかってやってきてくださるのだから、それなりの意味はあるのかなと自らを慰めもしているのですが、この方々の方がぼくなんかよりはるかに深いところにおられるのかもしれないという思いは消えません。
 あるときこんなことがありました。
 善導大師の「機の深信」の話をしていたときのことです。善導は、自らが弥陀の本願によって救われることを信じる「法の深信」の前に、自らの煩悩の深さを自覚する「機の深信」をおいているということを語っていたのです。「機の深信」の門をくぐらなければ「法の深信」へ出ることができないということです。「こんな煩悩まみれの自分が救われるはずがない」と自覚することを通して、「弥陀の本願はこんな自分を救ってくださる」と信じることができる、というように話していたのですが、「そうだろうか」と疑問をぶつけてこられた方がいました。
 「どうしてそのように人間というものを暗く語るんでしょうね」と言われるのです。ぼくはハッとしました。ぼくの語り口の中に、人間が生きることをあえて暗く描くようなものがあるのかもしれない。もっと言えば、ぼく自身がそのような暗さを手柄顔に語っているのかもしれないと。「こんな煩悩まみれの自分」ということを何か自慢げに語っているのではないか、「こんな煩悩まみれの自分」と思えない人は「法の深信」を得る資格がありませんよと。
 そこを突かれたような気がしたのです。


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