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4月23日(月) [矛盾について(その629)]

 「わたしゃあの子に煩悩でならん」に戻ります。
 前に言いましたように、「煩悩が深い人」ということばは、仏教の常識では否定的な意味です。煩悩とは肯定するものではなく否定するものです。「欲をおこし、怒り、愚痴をこぼす」(これが煩悩の中心で、三毒と言います)というのは人間の醜く暗い面です。仏教はそこに注目しますから、おのずと人間を暗く語ることになると言えます。そこからすれば、ぼくが「こんな煩悩まみれの自分」と言うのは仏教の教えにかなっているのでしょうが、でもそれは仏教のほんの上っ面ではないか。
 「わたしゃあの子に煩悩でならん」にこそ仏教の真髄があるのではないか。
 このことばには深い情愛があります。それは執われと言えば執われでしょう。でも執われて何が悪いという思いが滲み出ています。孫を津波にさらわれた老人が「わたしがあの子の代わりに流されればよかった」と言うのは、「わたしゃあの子に煩悩でならん」からでしょう。
 何度も引き合いに出すようですが、「なぜあの人は死に、私は生きているのか」という問いを前に、さる高名な宗教学者が「無常を受けとめるしかない」と言っていました。何とうすっぺらなことばでしょう。その学者がどれほど仏教のことをよく知っているとしても、「わたしゃあの子に煩悩でならん」はそれを「ひょいと乗り越えて」います。「無常を受けとめる」ということばで諦念を説くのに比べて、「わたしゃあの子に煩悩でならん」は人生を深く肯定するが故に嘆きが深いのです。
 人生を深く肯定するということ。

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