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4月25日(水) [矛盾について(その631)]

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということばについて。
 あるとき、思いがけなく五劫思惟の願が「向こうから」聞こえてきて、それに鷲づかみにされた。それは確かに親鸞一人の経験ですが、でも「みんなを救うまではわたしも救われることはない」と聞こえたのですから、それは親鸞一人にだけ関係するものではなく、みんなを包み込んでいるに違いありません。だから「親鸞一人がため」であると同時に「みんな漏れなく五劫思惟の願の中にある」と言えるはずです。
 何の根拠でそんなことが言えるのかと問う人は、五劫思惟の願を「こちらから」捉えなければならないと考えています。こちらから捉える場合、「捉えたぞ」と言うだけでは不十分で、それがほんとうかどうか、みんなを納得させるだけの根拠を出さなければなりません。こちらから捉える場合には、必ずその普遍妥当性を証明することが必要になるのです。
 普遍妥当性と言いました。しかし、こちらから何かを捉えようとする限り、厳密な意味で普遍性には到達できません。
 自然科学の真理性を保証するのは、ある学者が到達した結論を誰でも追試験できるということです。同じ条件で実験すれば、いつでもどこでも同じ結論に至ると言えなければ、その学説に価値はありません。ついこの間、光よりも速い粒子があるということになり、すわ、アインシュタインの相対性原理が覆されたかと大きな話題になりましたが、追試をしてみると、測定精度に問題がある可能性が指摘されました。

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