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矛盾について(その633) ブログトップ

4月27日(金) [矛盾について(その633)]

 こんなケース(実際には起こりそうにありませんが)はどうでしょう。ある日、また全く知らない差出人から手紙が届きました。あけて見ますと、「みなさんのお幸せをこころから祈ります」と書いてあります。これが誰かの悪戯でないとしますと、自分にだけ届けられたのではなく、みんなに届けられたと考えるしかありません。自分だけが選ばれたと推測できるものが何もないのですから、誰彼なしに出されたとしか思えません。
 こちらから近づこうとすると、あくまでも個別的で、普遍に到達することはできませんが、向こうから思いがけずやってくる場合は、みんなに遍くやってくるということを見てきました。
 「わたしは五劫思惟の本願の中にある」と言うだけでは、個別的なことのように見えるかもしれませんが、「わたしは五劫思惟の本願の歴史の中にある」と言いますと、それは「わたしもあなたもなく、みんな五劫思惟の本願の中にある」ということです。どうしてそんなことが言えるのかといいますと、五劫思惟の本願はこちらから近づいていくものではなく、向こうから思いがけずやってくるからです。
 以上おしまい、と言うわけにはいきません。ここで必ずこんな声が出るからです。きみは「五劫思惟の本願は向こうからやってくる」と言うけれども、ぼくにはやってこないのだが、と。かくしてまた「信じること」のアポリアにぶつかることになります。阿弥陀仏の声はみんなに聞こえているはずなのに、ある人には聞こえ、ある人には聞こえない、これをどう見ればいいのか。
 しかし、もういいでしょう、親鸞とともにこう言うしかありません、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と。

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