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5月1日(火) [矛盾について(その637)]

 宗教的な感情が「所属集団の枠を超えて人類の一員として存在することを可能ならしめる」のは、なぜでしょうか。
 やはり「生きられた永遠」が手がかりとなります。「生きられた永遠」を体験している人は、自分がいま所属している集団を大切にしながらも、同時にそれを超越しています。なぜなら、その人は所属集団の中にいながら、同時に永遠を生きているからです。
 「自分は日本人である」ことはとても大切なことですが、でもそれはたまたまのことに過ぎません。ひょっとしたら中国人に生まれていたのかもしれないのですから。「生きられた永遠」の前では、日本人であるか中国人であるかはどちらでもいいことです。
 誤解のないようにもう一度言いますが、「自分は日本人である」ことはとても大切なことです。あるいは「仏教徒(親鸞の徒)である」ことはぼくにとって何ものにも代えがたい価値があります。でも、そう思うとともに、そんなことはどうでもいいという思いがしています。
 この二つは全く矛盾しません。というよりむしろ、そんなことはどうでもいいと思うからこそ、日本人であることや仏教徒であることを大事にしたいと思うのです。それは「生きられた永遠」の感情が、あらゆることがらの底で働いているからです。
 金子大栄氏が言われるように、宗教はあらゆる文化の頂点にあるのではなく、一番底にあってすべての文化を支えているのでしょう。もし宗教があらゆる文化の頂点にあるとしますと、どの宗教がお山の大将になるかで争わなくてはなりません。こうして宗教戦争が起こります。
 でも、「生きられた永遠」の感情があらゆる文化(その中には個々の宗教も入ります)の底にあって、それらを支えているのだとしますと、もう垣根を作っていがみあうこともありません。

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