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5月2日(水) [矛盾について(その638)]

 いま覚如(かくにょ)の残した文章を読みかえしています。
 覚如とは親鸞のひ孫に当たる人で、本願寺の第三祖とされますが、まあ事実上、本願寺の創始者と言えるでしょう。親鸞は法然の真実の教えを伝えようとしただけで、新しい宗派を開くなどという気持ちがなかったことは、彼の書いたものから明らかです。親鸞を祖として浄土真宗という新宗派を作り、その本山としての本願寺を作ったのは覚如です。
 その覚如の文章を読んでいて、いくつか疑問にぶつかるのですが、そのひとつを上げておきたいと思います。
 「われらのなかに浄土の教えを信じる人もあり、信じない人もあります。それはどうしてかと言いますと、『無量寿経』に説かれていますように、前世で宿善を積んできた人は今生でこの教えにあって信じるのですが、そうでない人はこの教えにあっても信じることがありませんから、あわないのと同じことです」。
 これは『口伝鈔』(親鸞の教えを覚如が伝え聞き著したとされる書物)の第二段の冒頭部で、この段の趣旨は、弥陀の光明に照らされることが縁となって名号を聞くことができるのですから、「往生の信心のさだまることはわれらが智分にあらず(往生できるという信心が定まるのは、われらの智慧の力によるのではない)」ということにあります。他力とはそういうことだというのです。
 これは親鸞が『教行信証』で説いていることのエッセンスと言っていいでしょうが、そのことと「過去の宿善」とはどう関係するでしょうか。信じるか信じないかは、過去の宿善のあるなしによるとしますと、どんなに光明名号の因縁が働いても、過去の宿善なきものは光明名号に「あはざるがごとし」で、縁なき衆生ということになるのでしょうか。
 どうも腑に落ちません。

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