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矛盾について(その639) ブログトップ

5月3日(木) [矛盾について(その639)]

 信じるか信じないかが「過去の宿善」のあるなしによるとなりますと、過去の宿善なきものは縁なき衆生ということでしょうか。腑に落ちません。
 頭に浮かぶのはカルヴァンの予定説です。
 世界史の教科書にもありますように、カルヴァンはルターに続いてスイスで宗教改革を行った人物で、彼の教えの特徴は予定説にあります。神に救われるかどうか(天国に行くか地獄に落ちるか)は神によりあらかじめ定められているというのです。
 われらがこの世でどんなに善いことをしようと、地獄に落ちるべく定められている人は地獄に落ち、どんなに悪いことをしようと、天国に行くべく定められている人は天国に行く。そして自分がどちらに定められているかは全く知りようがない。これが予定説です。
 マックス=ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、この予定説が資本主義を推し進める精神(エートス)となったと説いたことはよく知られています。自分は救われる側にあると信じて、禁欲し、額に汗して職業労働に励む人々が資本主義社会を作っていったというのです。
 実際、プロテスタンティズムの支配的な地域(オランダ、イギリスなど)で資本主義が発展していったのですが、このつながりはなかなか理解しにくいものがあります。どうして予定説を信じる人が勤勉に働くというエートスを身につけていったのか。
 一所懸命働こうが、毎日ダラダラ過ごそうが、そんなことは一切関係なく、救われる人は救われ、救われない人は救われないとしますと、「じゃあ一所懸命働こう」となるでしょうか。逆に「まあ適当にやるか」とならないのでしょうか。

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