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5月4日(金) [矛盾について(その640)]

 どうしてカルヴァンの予定説を信じる人が勤勉に働くというエートスを身につけていったのか。
 問題を解く鍵は、額に汗して一所懸命働く中でこそ神の恩寵を感じるというところにあります。
 自分が救われるのかどうかは分からないが、一所懸命働いているうちに必ず救われるという確信が得られるということです。一所懸命働くことで救いが得られるわけではありません、救いが得られるという「確信」をもてるのです。
 だからこう言うべきでしょう、自分は救われる側にあると信じるから一所懸命に働くのではなく、一所懸命働く人のうちに自分は救われる側にあるという確信が生まれ、その結果ますます勤勉になると。
 さて覚如です。
 過去の宿善のあるものは往生の信心が得られ、ないものは得られない。そして信心が得られなければ、本願はないのと同じことになる。としますと、救われるか救われないかはもう前もって決まっているということです。これは予定説にそっくりで、そこから予定説に感じるのと同じ違和感を持ってしまうのです。
 その違和感というのは、キリスト教であれ浄土の教えであれ、救いというものはすべての人に平等でなければならないのではないかということです。一方に救われる人がいて、他方には、もうはじめから救われないと決まっている人がいるというのは、「平等の救い」という一番大切な原則に反するのではないかという思い。

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