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5月13日(日) [矛盾について(その648)]

 森岡氏から刺激を受け、以前『動的平衡』(福岡伸一著)という本を読んだことを思い出しました。
 ちょっと長いですが、こんなふうに書いてあります、「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子を置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。つまり、環境は常に私たちの身体を通り抜けている。いや、『通り抜ける』という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が『通り過ぎる』べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も『通り過ぎつつある』分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて、一定の状態を保っている。その流れ自体が『生きている』ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように『動的な平衡』という素敵な名前をつけた」。
 素晴らしく明快な説明です、いのちとは循環する流れの一時的な淀みである、と。
 生きるということが絶えざる流れの中の淀みであるとしますと、死ぬということはその淀みが解消されて形のない流れになってしまうということでしょう。河の中に生まれては消えていく小さな渦のようなものをイメージすればいいのでしょうか。ある場所に生まれた渦が一定の時間かろうじて形を保っているが、何らかの条件が変わると、その渦は形を失い、無定形の流れになってしまう。それが死ということだと。このイメージで一番刺激的なところは、「外から」やってきた微細な物質が一定の形を作り出しながら、また「外へ」と流れ去っていくというところです。

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