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5月16日(水) [『歎異抄』を読む]

 これまで「矛盾について」長いおしゃべりを続けてきましたが、この辺でけりをつけ、これから『歎異抄』について少しまとまったお話をしようと思います。4年ばかり前の中日文化センター(名古屋・栄)の講座を元にしながら、よりバージョンアップを図っていきたいと思っています。
 まず自己紹介を兼ねながら、この講座がどのようなねらいを持っているかといったところからお話していこうと思います。
 大体『歎異抄』の講座などというものは、お寺のお坊さんや宗派の大学の先生が担当されるのでしょうが、ぼくは全く宗派に関係がありません。誰かにあなたの宗教は?と聞かれたら、無宗派と答えるでしょう。ぼくは仏教に興味を持っていますし、とりわけ親鸞には大いに惹かれています。その意味では仏教徒と言えます。
 でも、ぼくの家には正式な仏壇もありません。お寺もありませんし、お墓もありません。さて死んだらどうしようかと、妻との間でそんな話題がボチボチ出るようになりました。ぼくは骨を粉にして海にまいてもらうのがいいと思うのですが。
 そんな人間がどうして『歎異抄』の講座をということになりますが、それにはいろいろな因縁があります。何年か前のことですが、教育テレビで「歎異抄を語る」という番組がありました。どんな話をされるのだろうと見てみましたら、講師はやはり大学の先生で、お寺の住職でもある方でした。
 テレビで話をされるのですから、親鸞について深く研究されている有名な学者なのでしょう、分かりやすいことばで丁寧に読み解いていかれます。関連することがらなども広く紹介され、さすがと思ったのですが、しかしぼくには大いに不満が残りました。

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