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『歎異抄』を読む(その2) ブログトップ

5月17日(木) [『歎異抄』を読む(その2)]

 どんな不満かと言いますと、これは真宗の信仰を前提としている宗教講座じゃないかということなのです。
 少し説明が必要でしょう。宗教講座というものは、もうすでに真宗なら真宗の信仰を持っていることを前提として進められます。信仰を持っている人は、その講座を聞くことによって信仰をより深めることができるかもしれませんが、信仰を持っていない人は、この話についていけないと思いました。阿弥陀仏や浄土を当然の前提として話されますから、もうそこでつまづいてしまうのです。
 お寺で話をするのでしたら、それでいいでしょう。でもテレビで「歎異抄を語る」のでしたら、阿弥陀仏や浄土に全く縁のない人も聞ける話をしてほしいなと思うのです。ぼくは長年高校で社会科の教師をしてきました。で、例えば「倫理」という科目で親鸞についての話をしなければなりません。阿弥陀仏って何だよ、念仏なんて勘弁してよ、という顔をしている高校生たちに親鸞の思想を語らなければならないのです。
 まあ、無難に親鸞についての知識を与えればいいのかも知れません。鎌倉時代に親鸞というおもしろいお坊さんがいてね、法然の教えを受けて、浄土真宗を開いたんだよ。公然と妻を持った最初のお坊さんでね、「悪人こそ救われる」なんて言ったんだ、といった話をして、これ大事だからしっかり覚えるんだよと釘を刺す。こんな光景が全国の高校で繰り広げられていることでしょう。
 でも、ぼくにはこれでは満足できません、もっと彼の思想の凄味を伝えたいという欲が出てきてしまうのです。でも実際はうまくいきません。限られた時間の中で「悪人こそ救われる」ということばの真意を伝えることは至難の業です。

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