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『歎異抄』を読む(その3) ブログトップ

5月18日(金) [『歎異抄』を読む(その3)]

 そんな経験をしてきたものですから、NHKの親鸞講座に対して不満が出てくるのです。阿弥陀仏って何だよ、念仏なんて勘弁してよ、と思っている若い人たちに「歎異抄を語る」、そういう講座にしてもらえないかと思ってしまうのです。阿弥陀仏や浄土を当然の前提としない話をしてほしい。でも、それを他の人に期待するのではなく、自分でやれなくてどうするんだとも思います。
 ぼくは豊田のあるお寺にご縁があって、報恩講とか蓮如忌などにお話をさせてもらったことがあるのですが、そんな時思うのは若い人がいないということです。大体ぼくよりも年上の方がほとんどで、若い人と言えば、寺の若奥さんぐらいでしょうか。お寺というのはそういうもんだよと言われれば、それまでなんですが、ぼくには何だかもったいなくて仕方がありません。これまで仏教が育んできた非常に高度な文化がこのまま朽ち果てていくとすれば、何とももったいない。
 お寺は全国に8万もあるそうです。お寺は、それが街角にあるだけで、しっとりと落ち着いた雰囲気をかもしだして、仏教文化の香りをあたりに漂わせてくれます。それだけでも意味があると思いますが、そこを舞台にして仏教と時代との接点ができていけば、何かが生まれてきそうな予感がするのです。
 もうだいぶ前になりますが、『がんばれ仏教!』というタイトルの本を読みまして、その感をより強くしました。
この本は、これまで葬式仏教と揶揄されてきたが、これからはもう葬式もお寺には頼まずに済ませてしまうようになるのではないかという予想からスタートします。現にぼくの葬式はまず間違いなく無宗教形式になるでしょう。とすると、これからお寺はどうなっていくのか。しかしこの本は、スリランカの仏教を紹介したり、日本各地のお寺で行われているユニークな活動を紹介して、仏教には大きな可能性があるのではないかと説いていくのです。ぼくは大いに共感しました。

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