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『歎異抄』を読む(その4) ブログトップ

5月19日(土) [『歎異抄』を読む(その4)]

 ぼくと仏教との縁は結構深いような気がします。
 ぼくは奈良で生まれ育ちました。田舎の小学校から町の私立中学に入ったのですが、その中学は東大寺が経営する学校で、南大門のすぐ隣にありました。毎朝観光客たちと一緒に登校し、南大門をくぐって大仏様に一礼をしてから学校に入るのです。それがとても恥ずかしかった。
 学校の北隣が東大寺の勧学院で、昼休みに遊びにいきますと抹茶とお菓子でもてなしてくれました。美術の時間には境内に散らばって由緒ある建造物を写生しましたし、体育の時間は東塔跡でソフトボールをしたり。そんな環境で、いわば仏たちに囲まれるようにして中高の6年間を過ごしたのですが、そんなぼくが仏教と本格的に出会ったのは、高校2年の「倫理社会」の授業でした。
 担当された先生は大学で哲学を学んだ方、というよりも教師をしながら自分で哲学の研究をされているような方でしたが、古今東西の思想家たちのことばに直に触れさせようと、岩波の文庫本をいくつか選び、それを読むよう指示されたのです。岩波文庫は当時星の数で値段が分かるようになっていましたが、その星ひとつ、一冊50円の文庫本を次々と与えられました。
 思い出せるのは、『ソクラテスの弁明』、『方法序説』、『正法眼蔵随聞記』などで、その中に『歎異抄』も入っていたのです。ぼくらにとってとてつもなく高度な要求で、どんなふうに読んだのかあまり記憶にありませんが、ただ『歎異抄』はとても印象に残りました。勿論内容が分かった訳ではありません。古めかしい日本語に辟易しながらも、「これは何だろう。よく分からないけど、ここには何かありそうだ」という感覚を持ったのです。それがぼくと親鸞との出会いでした。

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