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『歎異抄』を読む(その6) ブログトップ

5月21日(月) [『歎異抄』を読む(その6)]

 ぼくと仏教そして親鸞との縁についてお話してきましたが、これまでの話から、どんなねらいをもって『歎異抄』を読もうとしているかをおくみ取りいただけるのではないかと思います。
 前にNHKの講座に対する不満を述べましたが、ぼくは仏教あるいは親鸞の思想を、仏教関係者あるいは真宗の門徒に限定するのはあまりにももったいないと思うのです。一部の仏門の人が『歎異抄』を信仰の書として仰ぐのは当然ですし、そういう趣旨の講座が開かれるのも当たり前のことです。しかし『歎異抄』をその人たちだけのものとしておくのは、何度も言うようですが、あまりにもったいない。
 ぼくは『歎異抄』を宗教書としてよりも、もっと広く思想書として読みたいのです。思想とは時代の苦悩の中から生まれてきます。時代の苦悩とともに生きようとするところから生まれると思うのです。昨日の「まえがき」で、思想は、生きることに対する居心地の悪さから生まれてくると言いました。同じことです。時代に居心地の悪さを感じない人には思想は無縁です。居心地が悪くて、息苦しくて、何とかならないかと思うから、一生懸命考え、それが思想と呼ばれるのです。
 『歎異抄』は13世紀の書物ですが、その時代に居心地の悪さを感じた人たちが一生懸命考えて出来た本です。ぼくらは21世紀に生き、この時代の苦悩を感じています。この苦悩を何とかしたいと思うとき、『歎異抄』はそのために大きな力を貸してくれると思うのです。ですから、ただ『歎異抄』を読むのではなく、『歎異抄』を通して現代を読みたいのです。それが『歎異抄』を宗教書としてではなく、思想書として読むという意味です。

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