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聞こえるということ [『歎異抄』を読む(その7)]

(7)聞こえるということ

 「語る」ということに続いて「聞こえる」ということについて考えておきたいと思います。これが親鸞の他力思想の核心にあるからです。
 親鸞は信じるとは聞こえることだと繰り返し言っています。それが他力の信心だと。一方、蓮如は信じるとは「たのむ」ことだと言います。「後生たすけたまえとたのむ」のが弥陀を信じることだと。これは具体的で分かりやすいのですが、ただこの言い方で気をつけなければいけないのは、「たのむ」となりますと、どうしても「たのむ」われらと「たすける」弥陀とが離れてしまうということです。そして、その隙間に疑いが入り込むのです、どうしてわれらが「たのむ」と、弥陀が「たすけてくれる」のかと。蓮如は「つゆほどもうたがうこころあるべからず」と言いますが、そんなふうに繰り返し言わなければならないということ自体、現に疑いが起こらざるをえないことを示しています。
 さて「聞こえる」です。ふと不思議な声が聞こえるとき、その声はすでにわれらのなかに達しています。われらとその声はひとつです。そこに疑いは入り込めません。
 ぼくらは南無阿弥陀仏というのは称えるものだと思います。ぼくもながい間そう思いこんできました。念仏ということばがそのように思わせるのです。ところが親鸞は、南無阿弥陀仏はわれらが称える前に、それに先立って聞こえてくるものだと言うのです。まず向こうから聞こえてきて、それにこだまするように称えるのだと。そう言われて、改めて『無量寿経』を、とりわけその48願を読み直しますと、おどろくほど「名号を聞く」あるいは「名字を聞く」ということばが出てくることに気づきます(48願のなかのの12願)。
 どうしてそのことに気づかなかったのかと思うほどの多さです。思うに、本願と言えば第18願だと思い、それ以外の願にはそれほど注意がいき届かなかったということ、そして、なによりも、名号とは称えるものという先入見がそれを見えなくさせていたからに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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5月22日(火) [『歎異抄』を読む(その7)]

 親鸞を僧としてではなく、時代と向き合った一人の思想家として捉えたいということですが、それと関連しておさえておきたいのは、親鸞は自らを「非僧非俗」と位置づけ、「愚禿親鸞」と名乗ったということです。その経緯を『教行信証』の末尾に親鸞自ら綴っています。ちょっと紹介しておきましょう。ここから親鸞という人の一面を垣間見ることができると思うからです。
 「主上臣下、法に背き義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ。これにより真宗興隆の太祖、源空法師、ならびに門徒数輩、罪科をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす。あるいは僧儀をあらため、姓名をたまふて遠流に処す。予はそのひとつなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす。」
 ここには時代や社会に対する激しいプロテストがあります。そしてそのプロテストを自分の名前に刻みつけ「愚禿親鸞」と名乗るところに親鸞という人の一徹な精神を見ることができます。もはや僧ではない、しかしだからと言って俗でもない、というスタンスでこの時代この社会と向き合っていこうとしているのです。
 僧としての立場とは、お上からいわば国家公務員としての身分と収入を保証され、天皇・国家の安寧、そして世の民の救いを祈るということに他なりません。彼は35歳の時その地位から追放され、4年後に許された後もそこに戻らず非僧非俗の立場を貫きます。それは一人の人間として時代の悲しみ、社会の苦悩と向き合っていこうという姿勢だと思います。ぼくもそれを見習いたいと思うのです。

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