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『歎異抄』を読む(その13) ブログトップ

5月28日(月) [『歎異抄』を読む(その13)]

 「聞く」ということ。
 今は何でも手軽に情報を手に入れることが出来ます。本屋には渦高く本が積まれていますし、インターネットで検索すればたちどころに欲しい情報が手に入る。ですから、誰かの口から直接聞き、それを自分の耳の底に留めることには何の価値も置かれません。
 職人や芸人の世界では師匠から直接教えを受け、それをしっかり耳の底に留めておくという流儀か残っています。一番大事なことはそういうふうにしてはじめて伝わるのだと信じられているのです。でも一般には「聞く」ことの価値はどんどん下がり、「聞く力」もますます低下しているのではないでしょうか。ぼくらは「じっくり聞く」という文化を失いかけています。
 高校教師時代のことを思い出します。
 クラスの生徒が万引きをして捕まったようなとき、ぼくら教師はそうした生徒を前にすると、とかく饒舌になります。一生懸命説教をするのです。「お前は何でこんなバカなことをしたんだ。高校生にもなって、こんなことをしたらいかんということは分かっているだろ」と矢継ぎ早にことばを繰り出します。
 ことばで生徒との距離を埋めようとするかのように。沈黙が怖いかのように。あるいは、言うべきことを言って、この嫌な時間を早く終わらせようとしているのかもしれません。かくして生徒の声を聞くことが疎かになります。本当は、どうしてそんなことをするに至ったのか、どんな事情があるのかをじっくり聞かなければならないのに。沈黙の中から生徒の心のつぶやきを聞き取ることができないのです。


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