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『歎異抄』を読む(その14) ブログトップ

5月29日(火) [『歎異抄』を読む(その14)]

 現代という時代は「聞くこと」よりも「言うこと」を重んじる時代です。
 聞くというのは受け身ですが、それに対して言うのは能動的。今の時代、受け身ではいけません、何でも自分から行動を起こさないと置いてきぼりをくってしまう。学校でも会社でも国会でも相手の言うことを聞いていたのでは負け組になってしまいます。どんどんこちらから主張して、相手を言い負かさなければなりません。
 こうして聞くことは隅に追いやられ、その結果聞く力がどんどん弱くなった。相手が何を言おうとしているのかをじっと耳を澄まして聞くということが等閑にされていった。相手が何を言おうとしているのかを聞き取るためには沈黙の時間が必要なのに、その余裕がありません。沈黙は無駄な時間だとされるのです。
 しかし、本を読む場合でも、何かが伝わってきたという感触がある時は、本から何か声が聞こえてくるのではないでしょうか。
 前にお話しましたように、ぼくが高校時代に『歎異抄』を読んだ時、よくは分からないのだけど、何かが伝わってきた感じがありました。「ここには何かがありそうだ」、あるいは「これは本物だ」という感触がありました。
例えば、第二章の「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」ということば。「このことばは偽物じゃないぞ」と思いました。その時、親鸞の声が聞こえてきたような気がするのです。ぼくが目で文字を追ったというよりも、どこかから声が聞こえてきたと。

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