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『歎異抄』を読む(その19) ブログトップ

6月3日(日) [『歎異抄』を読む(その19)]

 第一章の短い文章に親鸞の思想のすべてが込められていると言えます。この第一章は『歎異抄』全体の総論というか結論ですから、これに素直に頷けたらもう親鸞は卒業です。あの何百ページもの『教行信証』を六行につづめているのです。あるいは釈迦にはじまり、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、そして源信、法然と受け継がれてきた念仏の思想の真髄がこの六行に収まっているのです。
 ですから、ちょっと読んで「はい、分かりました」という訳にはいきません。もう一語一語が分からないことだらけです。まず「弥陀」ときます。これからしてもう分からない。続いて「誓願」です。これまた何でしょう。そして「往生」。これらのことばたちは一つに繋がりあっていますから、どれか一つが腑に落ちれば、他のすべてのことばが納得できるという、そういうたちのものです。逆に言えば、一つが分からなければすべて分からない。
 ですから、これらのことばから入るのはやめにします。ちょっと違う入り口から入っていこうと思います。「生きる意味」という入り口です。
 もうだいぶ前になりますが、神戸で小学生の首を切って校門の上に置くというショッキングな事件がありました。サカキバラセイトと名乗る当時15歳の少年Aが犯人でしたが、あれは世間をびっくりさせました。その時のことです、一人の高校生が「どうして人を殺していけないのか分からない」と発言しました。この事件に関するシンポジウムの場で、高名な作家や学者に対して「ぼくはどうして人を殺していけないのか分からないから、教えてほしい」と言ったというのです。とっさのことで、しかも全く思いがけない問いかけだったこともあって、誰一人答えられなかったそうです。それを知ったぼくは、もしぼくが教えている高校生がこんな問いかけをしてきたらどう答えればいいだろうかと真剣に考えました。

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