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『歎異抄』を読む(その25) ブログトップ

6月9日(土) [『歎異抄』を読む(その25)]

 生徒が「今日の授業おもしろかったよ」と言ってくれたのも、ぼくにとっての「なむあみだぶ」です。ぼくが生徒に「今日はよく頑張ったね」と言ってあげたのも、その生徒にとっての「なむあみだぶ」です。こんなふうに「なむあみだぶ」の声が世界中に響いています。
 ある時は一人の生徒が期せずしてぼくの仏となり、ある時はぼくが期せずして一人の生徒の仏となる。こんなふうに世界中の仏たちが「なむあみだぶ」と称えるようにならなければわたしはさとりをひらかない、といっているのが第十七願ではないでしょうか。
 「なむあみだぶ」の声こそ、ぼくらに「生きる意味」を届けてくれるメッセージです。それがぼくらの心に届けば、ぼくらは生きているという実感を持つことができます。このままでもうすでに救われているのだと思うことができるのです。
 第一条はその一語一句がすべてゆるがせにできませんが、あえてハイライトはどこかと言われたら、ぼくは躊躇なく「念仏まうさんとおもひたつこゝろのをこるとき」を上げたいと思います。
 これをぼくは「念仏がどこかから聞こえてきた時」と読みたいのです。念仏は「もうす」よりも前に「聞こえる」のです。念仏がどこかから聞こえてきて、念仏もうさんと思い立つのです。「なむあみだぶ」と聞こえてきて、その時です、「ああ、このままで救われている」と喜ぶ。
 「すなはち」とありますのは、その時直ちにということです。念仏もうさんと思い立つ、その時直ちに摂取不捨の利益に与る。摂取不捨の利益というのは、「ああ、もうすでに救われている」という喜びのことです。天に踊り、地に躍るほどに喜ぶ。踊躍歓喜の心が湧き起こるのです。

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