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6月11日(月) [『歎異抄』を読む(その27)]

 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」ということばは有名です。これは自分が存在することほど確かなことはないという意味です。それまでは神が存在することがすべての原点でしたが、デカルトは神に替えて我、自分というものをすべての出発点においたのです。そこから近代哲学の祖と呼ばれるようになりました。
 あらゆることを疑うことはできるが、ぼくがここにいるのは間違いないというのです。ぼくがここにいることを疑ったとしても、それを疑っているぼくがいるのですから。としますと、ぼくがここにいると思っている以上、ぼくがここにいるのは絶対確実と言えそうです。
 先回の話で、「あっ、ごめんなさい」に返事がなくても、自分がいるのは間違いないでしょう。「あっ、ごめんなさい」と思っている以上、そう思っている自分はいます。でも、その自分が周りの人たちに認められているのかどうかはまた別です。認められていれば、確かに自分はいるのだと安心できますが、もし周りから邪魔者扱いされていたら、自分がいることに不安が忍び寄ってきます。デカルトの意味では「我あり」でしょうが、本当に「我あり」なのか心配になって、外出できなくなるかも知れません。
 「我思う」ことで確かに「我あり」と感じたとしても、「あっ、ごめんなさい」に全く反応がないと「我あり」に不安が生まれます。自分としてはどれほど確かであっても、それだけでは安心できないものが残ります。その隙間を埋めてくれるのは自分以外の誰かです。その意味では「我あり」のためには「我思う」だけでは不十分です。「あっ、ごめんなさい」だけでは不十分で、「気にしなくていいですよ」のひと言が是非とも必要なのです。

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