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『歎異抄』を読む(その31) ブログトップ

6月15日(金) [『歎異抄』を読む(その31)]

 「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」
 わたし親鸞におきましては「ただ念仏して阿弥陀仏にお救いいただくだけです」と法然上人から教えられ、それを信じる以外に取り立てて何もありません。
 「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」、これだけです、これ以外に言うべきことは何もありません、と親鸞は言います。関東からやってきた人たちは、『教行信証』を書くほどの親鸞だから、「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」だけということはないだろう、もっと有難い教えがあるに違いないと思っているのでしょう。そんな顔をしている人たちに、わたしは法然上人から「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と教わり、そう信じているだけです、と断言するのです。
 ここまでが第一段です。ここを読んでいますと、親鸞と関東から来た弟子たちが真剣な面持ちで対面している様子が映画のひとコマのように頭に浮かんできます。その時の親鸞の胸のうちはどんなふうだったでしょう。よくぞはるばる訪ねてくださったという喜び、そしてねぎらいの気持ちは勿論でしょうが、その一方で、どうしてあなた方は念仏に対して疑いの心を持ってしまうのか、というやるせない思いが伝わってきます。念仏だけじゃないだろう、もっと何かあるに違いないと思うのは、念仏を信じきっていない証拠です。もし善鸞などの言うことを真に受けたとすれば、善鸞も悪いが、それを簡単に受け入れたあなた方もふがいない。本当に念仏を信じていれば、善鸞の言うことなど本気にするわけがないではないかと言いたいのではないでしょうか。

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