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『歎異抄』を読む(その32) ブログトップ

6月16日(土) [『歎異抄』を読む(その32)]

 問題は「信じる」ということです。
 何を信じるのかと言いますと、「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と信じるのです。どうして念仏して弥陀にたすけられるのかと言いますと、本願があるからです。ですから念仏を信じるということは本願を信じるということです。では本願とは何か。
 さて、ここに一つの壮大な物語があります。阿弥陀仏がまだ仏となる前、法蔵菩薩として修行をしていた時に、ある誓いを立てられた。それは「この苦しみの海に浮き沈みしている一切の衆生を救いとるまで、わたしは仏とならない」というものです。「最後の一人が成仏するまで、わたしも成仏しない」というのです。ここに大乗仏教のエッセンスがあります。
 大乗仏教とは、ひとことで言いますと、「自分だけの救いはない」ということです。
 ぼくは生徒たちに大乗仏教を教える時は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を持ち出します。よくご存知だと思います。娑婆世界で悪の限りを尽くして地獄に落ちたカンダタですが、生前一つだけ善いことをした。踏み潰しそうになった蜘蛛を「おっと、こいつも生きているんだ」と助けてやったのです。
 極楽の蓮池をとおして地獄でもがいているカンダタをご覧になったお釈迦さまは、そのことを思い出し、一本の細い蜘蛛の糸を地獄に垂らしてあげられた。カンダタは「やれ、救われた」とばかりにその糸をよじ登るのですが、途中で下を見ると、何と地獄の住民どもが次々とその糸にぶら下がっている。カンダタは「こらっ、この糸はオレのものだ、みんな降りろ」と叫んだその瞬間、糸はカンダタの手のところでプツンと切れてまた地獄の底に真っ逆さま、というあの話です。

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