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『歎異抄』を読む(その33) ブログトップ

6月17日(日) [『歎異抄』を読む(その33)]

 この話、「自分だけの救いはない、みんなが救われてはじめて自分も救われる」という大乗の教えを表して見事だと思うのですが、ただ一つだけ不満があります。お釈迦さまのことです。お釈迦さまは一部始終を極楽の蓮池からご覧になっている。これがどうにも腑に落ちません。
 この話では、糸が切れてカンダタがまた地獄の血の池に落ちていった様子を見ながら、お釈迦さまはカンダタの浅ましさに悲しそうな顔をされたというのですが、カンダタが地獄に舞い戻るのは仕方がないとしても、お釈迦さまはそれを美しい音楽が流れ芳しい香りが漂う極楽で見ておられるというのが納得できません。それは大乗の教えに反するのではないでしょうか。ぼくには法蔵菩薩のお話の方がよほど有難い。法蔵菩薩は「最後の一人が仏になるまで、自分も仏にならない」と誓われた。これこそ大乗の教えそのものです。
 さて法蔵菩薩は五劫という長いあいだ思惟して四十八の誓願を立てられ、そして修行を重ね、ついに成仏して阿弥陀仏となられた。いまに十劫の昔とされます。
 この五劫とか十劫というのは、頭がくらくらするほど長い時間のことですが、一劫がどれほど長いかと言いますと、天女が3年に一度巨大な岩に舞い降りてきて、羽衣がその岩をなで、岩が磨り減ってなくなるのにかかる時間だそうです。落語の「じゅげむ」に「五劫のすりきれ」と出てくるのはこのことです。中国人は白髪三千丈(1丈は約3メートル)などと途方もないことを言いますが、インド人も負けず劣らず想像力が豊かと見えます。
 ともあれ「最後の一人が救われるまで仏にならない」と誓われた法蔵菩薩が十劫の昔に阿弥陀仏になられた。ということは、最後の一人まで救われたということです。

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