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『歎異抄』を読む(その35) ブログトップ

6月19日(火) [『歎異抄』を読む(その35)]

 第2段に進みます。ここで爆弾発言が飛び出します。
念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆゑは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
 まず第1文です。
 「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
 念仏は、ほんとうに浄土に往生できる種なのか、それとも地獄に落ちる業なのか、そもそもわたしは知りません。
 これは急所を突くことばです。関東からやってきた人たちは「ほんとうのところを聞きたい」と思ってはるばる親鸞を訪ねてきた、「念仏してほんとうに浄土に往生できるのか」と。それに対して「ほんとうのところがどうなのか、私は知らない」とポーンと突き放すのです。
 「知る」ことと「信じる」こと。
 親鸞は、あなた方は大事なことを知ろうとしているのだろうが、それがそもそもの間違いで、信じることが問題なのだと言うのです。「このままでもうすでに救われている」ことは知ることではなく、信じることなのだと。
 「知る」のは「こちらから」であるのに対して「信じる」のは「向こうから」です。
 何かがほんとうかどうかを知ろうとしますと、「こちらから」出かけていって、その証拠を調べなければなりません。十分な証拠が揃ってはじめて「知った」ことになります。それに対して何かを信じるのは、「向こうから」声が聞こえてきて、それが有無を言わさず心に届いたということです。それが本当かどうかなんて「総じてもて存知せざるなり」です。そんなこと関係なく、こころの中にどっかと腰を下ろすのです。

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