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『歎異抄』を読む(その37) ブログトップ

6月21日(木) [『歎異抄』を読む(その37)]

 「たとえだまされてもいいから信じる」などということができるのはなぜか。親鸞はこう答えます。
 「どうしてかといいますと、念仏以外の行で仏になれる身が念仏をしたために地獄に落ちたとしましたら、だまされたという後悔もあるでしょうが、どんな行も及びがたい身ですから、地獄は定めてわたしの住処(すみか)というべきです。」
 前の例で言いますと、あの友人は返してくれる可能性が高いと思ってお金を貸してあげたのに、返してくれないとなるものですから、判断を誤ったと後悔します。同じように、念仏以外のどんなことだってできるのだが、念仏を信じて往生しようとしたのに、実際は地獄行きだったとなるものですから、だまされたとなるのです。これも、念仏をして往生できる可能性が高いと判断したのに、実際は地獄行きとはっきりすると、「しまった」と悔しくなる。
 しかし、可能性が高いから信じるのではなく、もうそうするしかないから信じるのだと親鸞は言います。どうもがいても地獄にしかいけない身なのだから、「念仏して浄土へ往く」と信じるしかないと言うのです。有名な「二河白道」のたとえで言いますと、「われいまかへるともまた死せん、住すともまた死せん、ゆくともまた死せん」という状況で、この白道をゆくしかない。もうとことん追いつめられ、残された道として「念仏して浄土へ往く」と信じるしかないということでしょう。

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