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『歎異抄』を読む(その42) ブログトップ

6月26日(火) [『歎異抄』を読む(その42)]

 「南無阿弥陀仏」の声に遇うというのは、誰かから「こんにちは」と挨拶されることだと言いました。
 道を歩いていて、思いがけず、見知らぬ方から「こんにちは」と声をかけられることがあります。それはただ挨拶してくださったのにすぎないのでしょうが、その声がふと「そのまま生きていていいんですよ」と聞こえるときがあります。声をかけてくださった方にはそんな気は毛頭ないでしょうが、どういうわけかそのように聞こえて、こころがポカポカ温かくなる。
 それは自分自身が「このまま生きていていいのだろうか」という鉛のような問いを抱えているときです。その問いに、思いもかけず、思いもかけないところから答えが与えられるのです。そう聞こえたとき、「こんにちは」は、ただの「こんにちは」ではなく、「南無阿弥陀仏」なのです。
 これが阿弥陀仏に遇うということです。阿弥陀仏が待っていてくださるのを感じるということです。
 第2段を見てきましたが、ここに親鸞の他力思想のすべてがあると思います。「こちらから」が自力で、「向こうから」が他力でした。ぼくらは普段「こちらから」生きています。朝起きると、「さてと、今日はまずあれをやって、そして次にあれをやらなくちゃ」と段取りをつけ、それに従って行動に移ります。「こちらから」出かけていきます。「救い」にしても同様です。「さてと、救われるためには、まずあれをやって、次にあれだ」と段取りをつけ、それに基づいて「こちらから」行動を起こします。

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