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『歎異抄』を読む(その43) ブログトップ

6月27日(水) [『歎異抄』を読む(その43)]

 唐の僧・善導は「信」に二つあると言います。ひとつは「自分は救われる資格がない」と身に沁みて思うことです。あるいは「自分には地獄が相応しい」と感じること。もうひとつは「そんな自分がそのままで救われる」と信じることです。この二つは切り離せません。「とても地獄は一定すみかぞかし」と身に沁みて感じるからこそ、「そのままで救われる」という声が聞こえてくるのです。
 これが「向こうから」与えられる「信」です。ところが、ぼくらは「自分は救われる資格がない」と思うと、「救われるためには、それに相応しい身にならなければならない」と考え、「こちらから」行動を起こそうとします。
 突然ですが、ちょっと40年ほど若返ったとしまして、誰かすごく格好いい人を好きになったとしましょう。こちらは好きでたまらないのですが、相手は何とも思っていないようです。何とかして自分のことを好きになってもらいたい。さてどうすればいいだろう。
 顔は何ともならないから、せめて性格を変えよう。これまでは何事も消極的でイジイジしていたが、もっと明るく行動的になろう。そうすればこちらを振り向いてくれるかもしれない、などと考えるでしょう。あんな格好いい人に好かれるためには、それに相応しい人間にならなければと思うのは自然です。
 何かをしてもらおうと思ったら、それに相応しい条件が必要だと考えるのは当たり前のことです。悪いことをして許してもらいたいと思ったら、許してもらえるように償いをしなければなりません。大学に入学させてもらおうと思ったら、それに相応しい学力を身につけなければなりません。
 ましてや、この居心地の悪さから救われたいと思ったら、それに相応しい人間にならなければならないと考えるのは当然です。どうすれば救われるのに相応しい人間になれるのかと必死になる、これが「こちらから」です。

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