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『歎異抄』を読む(その45) ブログトップ

6月29日(金) [『歎異抄』を読む(その45)]

 第3段に進みます。
 「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか」
 阿弥陀仏の本願がまことでしたら、釈尊の教えも虚言ではないでしょう。釈尊の教えがまことでしたら、善導の解釈も虚言であるはずはありません。善導の解釈がまことでしたら、法然の言われることもそらごとではないでしょう。法然の言われることがまことでしたら、この親鸞の言うことも、またむなしくないのではないでしょうか。
 ここには念仏の歴史的現実が語られています。念仏は、わたし個人がうそかまことかをうんぬんするようなことではなくて、歴史の中で現実にリレーされてきたのだということです。第2段では、たとえうそであったとしても何の後悔もないということを述べていました。なぜなら「そのままで救われる」という声が「向こうから」届いたのです。こんな自分が救われるはずがない、とても地獄は一定と思っていたところへ「なむあみだぶ」の声が届いた。そして、ああ、有難いと身も心も温まり、天に踊り、地に躍るほど歓喜に包まれたのです。だったら、それがたとえうそでもいいではありませんか。だって、その声で現に救われたのですから。
 しかし、それはただわたし個人のことにすぎません。「なむあみだぶ」は、そんなわたし個人のことがらではありません。個人的真実ではなくて、歴史的現実として存在しているのです。わたし親鸞にとって念仏が真実であるだけでなく、わたしに念仏を教えてくださった法然にとって真実であり、法然の目を開かせた善導にとって真実であり、善導の師道綽にとって、その師曇鸞にとって、その師天親にとって、その師龍樹にとって、そして仏教の開祖釈迦にとって真実です。さらに言えば、その真実は釈迦が発明したものではありません。釈迦はただその真実を取り次いだに過ぎないのです。念仏は歴史的現実として存在しているのです。

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