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『歎異抄』を読む(その46) ブログトップ

6月30日(土) [『歎異抄』を読む(その46)]

 歴史的現実として存在するとはどういうことでしょう。
 歴史には「過去の出来事」という意味と「過去の出来事の記述」という意味があるとされます。さてしかし「過去の出来事」というものが、それが記述される以前にあるものでしょうか。あるいは、いまだ記述されない「過去の出来事」というものがどこかにあるのでしょうか。
 「当然だろう、歴史家たちはそのようなまだ誰も手をつけていない処女地を求めているのではないか」と言われるかもしれません。しかしここにはひとつの「思い込み」があります。「現在の出来事」があるのと同じように「過去の出来事」もあるとする思い込みです。「過去の出来事」のありようと「現在の出来事」のありようはまったく異なります。現在の出来事は「目の前に見る」ことができますが、過去の出来事は「思い起こす」ことしかできないのです。
 過去の出来事を「記述する」というのは、それを「思い起こす」ことに他なりません。ぼくが黄ばんだ一枚の写真から、高校時代の出来事を「思い起こす」ように、歴史家たちはさまざまな史料から、その時代の出来事を「記述する」のです。ぼくが同じ時期の別の写真を見て、記憶の間違いを正すように、歴史家たちも新しい史料が見つかって、これまでの時代像を記述し直すでしょう。思いもよらなかった新しい記述をすることができた歴史家は処女地を手に入れたのです。
 かくして歴史とは、さまざまな史料をもとにして、過去の出来事を記述することであり、それから独立して過去の出来事があるのではありません。

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