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『歎異抄』を読む(その48) ブログトップ

7月2日(月) [『歎異抄』を読む(その48)]

 第2章を振り返っておきましょう。
 信には「こちらからの信」と「向こうからの信」とがあるということでした。あるいは「与える信」と「与えられる信」。「こちらから与える信」は、自分が相手のことばをキャッチしようとします。そしてそのことばに信用を与えるのです。ですから、騙されでもしたらとても悔しい。友達を信じてお金を貸してやったのに、騙されたと分かったら「畜生!」と悔しくなります。
 でも「向こうから与えられる信」は、相手のことばが自分をキャッチするのです。ですから騙されたとしてもちっとも悔しくありません。「なむあみだぶ(そのまま生きていていい)」という声が向こうから聞こえ、それが心に沁みこみましたら、たとえそれがウソであったとしてもいいじゃありませんか。その声のお陰で今現に生きているのですから。その声によって現に救われているのですから。
 はるばる十余か国の国境を越えて命がけでわたしを訪ねてくださった皆さんは当ては外れたかもしれません。もっと深遠な教えを聞かせてもらえるのだろうと期待していたかもしれません。そうだとすればお気の毒ですが、わたしの信心は所詮こんなものです、と開き直ります。わたしは「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と法然上人から教えられたのを信じているだけです、と。
 ここにはしかし、うそでもいいから信じるという個人的信念とともに、それはもう歴史的現実なのだという思いがあります。ですからもはやテコでも動かない。『教行信証』にはしばしば「金剛の信楽」ということばが登場しますが、金剛とはダイヤモンドのことです。ダイヤモンドのように絶対壊れない信心というのです。そんな思いから「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」ということばが出てくるのです。

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