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『歎異抄』を読む(その51) ブログトップ

7月5日(木) [『歎異抄』を読む(その51)]

 いじめを世の中から根絶しなければならないと言う人は、自分は「人をいじめる」などということとは無縁の人間だと思っています。
 「世の中には、いじめをする人としない人の二種類の人間がいる。多くの人はいじめなどしない善い人だが、中には“いじめっ子”という悪いヤツがいる。だからいじめ問題というのは“いじめっ子問題”であって、いじめ対策とは“いじめっ子対策”だ。いじめっ子という悪いヤツを懲らしめて、もう二度といじめなどしないようにしていけば、この世からいじめを退治することができる」と。
 こんなふうに思っているものですから、いじめによる自殺なんてことが報道されるたびに、学校では「いじめっ子対策」をちゃんとしていたのかと校長や担任を責めることになります。こういう風潮が強まりますと、学校ではいじめの事実を隠そうとします。責任を問われたくないからです。
 ぼくの教師経験から言いまして、いじめの本当の犯人はいじめた子ではなく、実は周りの傍観者たちです。勿論いじめた子は悪い。それは言うまでもないことです。厳しく叱らなければなりません。でも、いじめた子を叱るだけで一件落着とはいきません。厳しく叱られた子はもういじめをしないかもしれませんが、また新手のいじめっ子が現れてくるだけです。
 どうしてか。周りにいじめを囃し立てる雰囲気があるからです。どことなくいじめを喜んでいる空気があるからです。教壇に立っていて、この頃何だか変な空気だなと感じることがあります。そうしますと決まって何か問題が起こります。万引きだったり、いじめだったり、リストカットだったりと。
 問題はこのトゲトゲした空気です。

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