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『歎異抄』を読む(その55) ブログトップ

7月9日(月) [『歎異抄』を読む(その55)]

 さて、どちらが救いに近いでしょうか。親鸞は「自分は善人だと思っている悪人」より「自分は悪人だと思っている悪人」の方が救いに近いと言うのです。
 どうしてかといいますと、自分は悪い人間なんかじゃないと思っている人には、「そのままで救われる」という声が届きにくいからです。自分の善に頼ろうとする人は、「なむあみだぶ」の声が聞こえにくいのです。
 それに対して「とても地獄は一定」と観念している人には、「なむあみだぶ」の声がそのまま心に沁みます。自分は救われる資格のない人間だと身に沁みて感じた時に、「なむあみだぶ」の声が心に沁みるということです。
 さてしかし、「悪人こそ救われる」ことよりもっと不思議なのは、「悪人が悪人のままで救われる」ことです。
 悪いことをしたら償わなければならないと考えるのが普通でしょう。償い、悪を清めてはじめて救われる、償いもしないで救われるはずがないというのが常識です。悪いことをして償いもしないようなヤツが救われるのはおかしい。これは真っ当な感覚です。「悪人のままで救われる」という論理は、この真っ当な感覚とぶつかってしまうのです。
 お金を返す目途なんかないのに、明日必ず返すから貸して欲しいと友人に借金を頼んだとしましょう。ウソをついたのです。当然「どうしてウソをつくんだ」と激しく叱責されるでしょう。そんな時、「悪かった。ついウソをついてしまった。これからはもう絶対ウソをつかないから許して欲しい」と謝罪します。そしてどんなことをしても借りたお金を返す。
 そうして初めて許してもらえるでしょう。悪いことをしてしまったが、これからはもう悪いことをしないと誓うことで許されるのです。これからも悪いことをするにきまっているが許して欲しいと言って許してもらえるでしょうか。

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