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『歎異抄』を読む(その62) ブログトップ

7月16日(月) [『歎異抄』を読む(その62)]

 第4章は、苦しんでいる人が目の前にいても、念仏しながら通り過ぎればいいのだと言うのでしょうか。もしそうでしたら、ぼくはもうついていくことができません。
 ぼくらにも利他の心があり、それが人間としての尊さだと思うのです。思い出すのは、あの秋葉原事件で、たまたま同じ時刻にあの交差点で止まったタクシーの運転手さんのことです。トラックが赤信号を無視して交差点に突っ込み、何人かが目の前ではねられるのを見た運転手さんは、思わず飛び出して倒れた人を介抱しようとしました。ところが、そこを戻ってきた犯人にナイフで刺された。やり切れない思いがします。
 あの運転手さんが飛び出していったのは利他の心からでしょう。人を助けずにはおられない心。孟子は惻隠の情と言います。よちよち歩きの赤ん坊が井戸にはまろうとしているところに通りかかった人は、思わず「あぶない!」と助けの手を差し延べるだろう。その時、助けてあげれば感謝されるだろうとか、誰かから褒めてもらえるだろうとか考えて助けるのではなく、気がついたら助けていたというのが実際だろう。こんなふうに人間には生まれつき人の不幸を見過ごすことができない惻隠の心があるのだ、と孟子は言います。
 前に「なむあみだぶ」は阿弥陀仏の「生かしめんかな」の声だと言いました。阿弥陀仏が利他の心からぼくらに「生かしめんかな」と招き呼びかけてくださる声だと(親鸞のことばでは「招喚の勅命」)。しかし、ぼくらにも利他の心があるのではないでしょうか。ぼくらにも苦しんでいる人を見ると放っておくことができない心、「生かしめんかな」の心があるのではないか。それが人間としての証しだと思うのです。
 こうしてぼくは第4章のことばをなかなか飲み込むことができませんでした。

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