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『歎異抄』を読む(その67) ブログトップ

7月21日(土) [『歎異抄』を読む(その67)]

 でも、ぼくが出す声は「生きんかな」の声です。還相の仏の声がぼくの中から聞こえたとしても、それはぼくが出している声ではありません。ぼくが出している声は「生きんかな」です。
 前に金子みすずの「大漁」を紹介しましたが、ぼくらは鰮のとむらいの声を聞きながら、でも鰮を「おいしい、おいしい」と食べているのです。「生かしめんかな」の声が聞こえてきても、「生きんかな」の声に従って鰮をいただいているのです。この「生きんかな」の声に従わなければ、ぼくらは生きていけません。ぼくが生きるということは、「生きんかな」の声に従うということに他ならないのです。
 この「生きんかな」の声がさまざまな煩悩を引き起こします。前に「ほしがり虫」、「おこり虫」、「おろか虫」の話をしましたが、これらの虫どもは「生きんかな」の声のままに動き回ります。目の前にスイカが出てくるとどっちが大きいか比べ、後ろからクラクションを鳴らされると「ばっかやろう」と腹が立ちます。これらはみな「生きんかな」の声のままに、煩悩の虫どもが「オレが、オレが」と蠢きまわっているのです。
 としますと、どこかから聞こえてくる「生かしめんかな」の声と、ぼく自身の「生きんかな」の声があるということです。そしてこの二つの声はおのずとぶつかり合います。
 もう一度ボランティアを考えてみましょう。ある学生が、震災に茫然自失している人たちを見て、居ても立ってもいられなくなり現地に来たとします。もう無我夢中で救援活動をしますが、何日か経つうちに学校が気になりだします。そう何日も休む訳にはいきません。こうして「生かしめんかな」の声と「生きんかな」の声とが彼の中でぶつかり合うのです。

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