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『歎異抄』を読む(その69) ブログトップ

7月23日(月) [『歎異抄』を読む(その69)]

 それにしても「念仏して、いそぎ仏になりて」という言い回しが気になります。それに続いて「今生に、いかにいとをし」と来ますから、どうしても「この世では何もできないから、すべては来世で」というように読めてしまいます。
 そこで「この世で」を「自分の力で」、「来世で」を「他力にお任せして」と読み替えてみればどうでしょう。そうしますと、「念仏して、いそぎ仏になりて」は「念仏して、他力にお任せして」となり、「今生に、いかにいとをし」は「自分の力で、どれほどいとおしいと思っても」となります。
 なるほど仏になるのはいのち終わって後ですが、「なむあみだぶ(生かしめんかな)」という仏の声は、今生ただ今、すぐそこに聞こえています。ですから、「いそぎ仏になりて」を、文字通りに「急いであの世に行って」と読むのではなく、「急いで仏の声をお聞きして」と受け取るのです。
 ぼくらはともすれば「自分の力で」困っている人を助けてあげようとしますが、よーく自分の心の中を覗いてみますと、そこには「生きんかな」の声ばかりが響いているではありませんか。煩悩の虫たちが蠢いているばかりではありませんか。「生かしめんかな」の声は、そんな自分からではなく、仏から来るのです。
 ところで、「仏から」に関連して、『唯信鈔文意』という書物に親鸞のおもしろいことばがあります。「この如来、微塵世界にみちみちたまへり。すなはち、一切群生海の心なり」というのですが、このことばはいたく刺激的です。

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