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『歎異抄』を読む(その70) ブログトップ

7月24日(火) [『歎異抄』を読む(その70)]

 「この如来、微塵世界にみちみちたまへり。すなはち、一切群生海の心なり」。
 実に刺激的なことばですが、下手をすればとんでもない誤解を生んでしまいかねない危険なことばでもあります。「微塵世界に」とは、「この世界のどんな小さな部分にも」ということで、如来はこの世界のいたるところ、どんな隅々までも満ち満ちておわしますと言うのです。そして、群生とは衆生と同じ意味ですから、如来は一切衆生の心に宿っておわすということになります。
 如来は浄土に、われわれ衆生は娑婆に、と考えるのが普通です。しかし、この『唯信抄文意』のことばによりますと、如来はこの娑婆世界の只中に満ち満ちておわすのです。一切衆生の心に宿っておわすのです。これが『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性(一切衆生に悉く仏性あり)」の思想です。すべての衆生に仏性があるというのは、曽我量深的に言えば、前から見れば衆生でも、その後姿は還相の仏だということです。「生かしめんかな」の声がしてくるのは、この還相の仏からです。
 しかし、「一切衆生悉有仏性」と言うなら、同時に「一切衆生悉有煩悩」と言わなければなりません。
還相の仏から「生かしめんかな」の声が聞こえるのと同時に、ぼく自身が「生きんかな」の声をあげています。こうして「生かしめんかな」の声と「生きんかな」の声とがぼくの中でぶつかり合い、軋みあいます。震災にあわれた方にいくばくかのお金を差し上げることはできますが、財布ごと差し上げることはできません。「生きんかな」の声がそれを止めるのです。これがぼくらの慈悲です。

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