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『歎異抄』を読む(その72) ブログトップ

7月26日(木) [『歎異抄』を読む(その72)]

 「どうせ悪人だから」と「どうせ虚仮不実だから」。
 人間には間違いなく「生きんかな」の心があり、その心のままに煩悩の虫たちが蠢いています。その事実から目をそむけることはできません。でも、だからと言って、煩悩の虫たちに自由に振舞ってもらえばいいということにはなりません。
 こんなに煩悩にまみれたぼくらがこのままで救ってもらえるのです。それを有難いと思えば、できることは限られているけれども、できる範囲で人のためになるよう努めようという気持ちになるのではないでしょうか。
 最後に親鸞の和讃を紹介して第4章をしめたいと思います。
 「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」
 では第5章です。
 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまださふさらはず。そのゆゑは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を回向して父母をもたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々。
 わたし親鸞は、亡き父母の供養のために念仏したことは一遍もありません。それは、一切の生きとし生けるものは、輪廻転生の中でみんな自分の父母兄弟ですから、どの人も次の世で仏となって助けましょう。念仏が自分の力で励む善ならば、一生懸命念仏して父母を助けるでしょう。(しかし念仏は自分の力で励む善ではありません。) ただ自力を捨てて、いそいで浄土の悟りをひらくことができましたら、迷いの中でどんな生を受け、どんなにひどい苦しみにもがいていましても、仏の神通力で、まず近しい人から助けましょう。



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