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『歎異抄』を読む(その73) ブログトップ

7月27日(金) [『歎異抄』を読む(その73)]

 第4章までのところで浄土の教えの基礎が押さえられたと思います。「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」(これは第12章に出てくることばです)という浄土門の基本問題が解かれた訳です。そしてその後、いわば応用問題として「念仏を申す」ことについて、さまざまな角度から論じられていきます。
 その第一問が「亡き父母を供養するための念仏」です。まず結論がはっきりと打ち出されます、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまださふさらはず」と。これは念仏についてのもっとも一般的な捉え方にガツンと一撃をくらわしていると言えるでしょう。
 この一撃はかなりの力を持っているのではないでしょうか。ぼくらは念仏と言えば死者を供養するものと何となく考えているからです。あるお寺でご住職が「親鸞聖人は、亡き父母の供養のために一度も念仏したことがないと言われています」という話をされたところ、お寺に足を運ぶ門徒さんの数が目に見えて減ったそうです。
 さもありなんと思います。
 親鸞はどうしてこんなことを言ったのでしょう。理由はいくつかあると思いますが、その第一が「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」という点です。ぼくらは「わが父、わが母」と、自分を生み育ててくれた父母を特別扱いしますが、よくよく考えてみると、生きとし生けるものはみなわが父母兄弟ではないかというのです。いのちの繋がりということです。みんなひとつに繋がりあっているのだから、自分の父母の供養だけを考えるのはおかしいと。


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