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『歎異抄』を読む(その75) ブログトップ

7月30日(月) [『歎異抄』を読む(その75)]

 事情があって更新が遅れました。
 前から見ると罪悪深重の凡夫、でも後から見ると還相の仏ということでした。
 さて凡夫としては、ぼくはぼく、あなたはあなた、別々です。ぼくとあなたがひとつに繋がっているとややこしいことになってしまいます。ぼくもあなたも自由ではなくなってしまう。でも心配御無用。ぼくとあなたは別々で、だから自由です。
 でも、仏としては、還相の仏としては、ぼくもあなたもありません。ひとつに繋がっています。仏に固有名詞はありません、仏はひとつです。ここで考えてみようと思うのは、いのちにも固有名詞はないのではないかということです。
 「これはぼくのいのちだ」と言います。しかし、その場合の「これ」とは何を指しているでしょうか。「これはぼくの手だ」とか「これはぼくの耳だ」と言うのは自然な言い回しです。「これはぼくの肝臓だ」や「これはぼくの心臓だ」もいいでしょう。それと同じように「これはぼくのいのちだ」と言えるでしょうか。手や心臓がそれぞれの人のものであるように、いのちもそれぞれの人のものでしょうか。
 ある人が「これはぼくのいのちだから、それに終止符を打つのはぼくの自由だ」と宣言したとしましょう。その人のことをどう考えるべきでしょうか。
 実際一人の「哲学者」が、老残の身をさらしてひとの世話になる前に、自分で自分のいのちの始末をつけるべきだと考え、「65歳の春。清明で健全で、そして平常心で」この世を去りました。この文句は、彼が書いた『自死という生き方』という本の帯につけられた宣伝文です。
 ぼくは半ば戸惑いながらこの本を読みましたが、何かとても嫌な読後感でした。彼が言っていることにすごい違和感がありました。何人かの友人には事前に打ち明けていたようですが、家族に黙って決行したことが一番引っかかりました。彼は家族のことをどう思っていたのでしょう。

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