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『歎異抄』を読む(その77) ブログトップ

8月1日(水) [『歎異抄』を読む(その77)]

 もうひとつ思い出すのは、これまた学生時代に見た映画のことです。大島渚監督の『絞首刑』で、細部はほとんど忘れましたが、脳裏にこびり付いて離れないのが、絞首刑執行の場面です。民主党政権になって死刑執行の場所が始めて公開されましたが、それまでは全く闇の中でした。この映画は死刑執行現場をリアルに再現しているのです。
 目隠しされた死刑囚が刑務官に付き添われ刑場に連れてこられます。そして天上からぶら下がったロープの輪に首を入れられ準備完了です。何とも言えない緊張の数秒後、床が観音開きに下に開き、死刑囚の身体は数メートル落下します。そしてロープがピーンと張った瞬間、死刑囚の首がものすごい力で締め上げられる。
 そのリアルなシーンを見ていたぼくの身体も床から数メートル落下し、ぼくの首にものすごい力が加わったように感じました。そして、ぼくはこんなことがあってはいけないと思い、その時からぼくは死刑反対の立場に立つようになりました。
 ゲリラ兵が銃撃を受けるのを見たときぼくの身体がガクンと前後に波打ったり、死刑囚の首にロープが食い込むのを見たときぼくの首が締め上げられたように感じるということは、縁もゆかりもない人たちともいのちがひとつに繋がっているとしか考えられません。
 そして、いのちの繋がりを感じるのは人に対してだけではないでしょう。
 ぼくの母は蜆の味噌汁を作ろうとして、煮立っている鍋に蜆を入れる時、何か口の中でつぶやいていました。きっと「かんにんしてや」などと言っていたのでしょう。自分の身体が煮立ったお湯に入れられるような苦しみを感じていたに違いありません。やはりいのちはひとつに繋がっているのです。
 いのちには「ぼく」も「きみ」もなく、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」なのです。


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