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『歎異抄』を読む(その78) ブログトップ

8月2日(木) [『歎異抄』を読む(その78)]

 いのちの繋がりについていろいろ考えてきました。
 「ぼくのからだ」と言えます。「ぼくのこころ」とも言えます。しかし「ぼくのいのち」となりますと「ちょっと待てよ」と躊躇します。いのちに「ぼく」も「きみ」もなく、ひとつに繋がっているからでしょう。
 と、このように考えてきますと、「ほとけ」というのは「いのち」のことじゃないでしょうか。これまで「ほとけ」とは何かについてはきちんと答えずにきたのですが、ここにきて「ほとけ」とは「いのち」だと言いたい。
 前に(7月22日)、「ほとけ」は西方十万億土のかなたにおわすのではなく、この微塵世界に満ち満ちているという親鸞のことばを紹介しましたが、微塵世界に満ち満ちているのは「いのち」です。この「いのち」が実は「ほとけ」です。
 一つひとつの小さないのち(衆生)は「生きんかな」と煩悩のままにもがき苦しんでいますが、大いなるいのち(ほとけ)は「生かしめんかな」とそれらを包み込んでいるのです。小さないのちは煩悩に苦しんでいても、大いなるいのちから見れば「そのままで救われている」のです。
 さて、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまださふさらはず」の理由の二つ目ですが、念仏は「何かのため」に申すものではないということでした。つまり念仏とは「わがちからにてはげむ善」ではないということです。これは次の第6章とも関わる重要な論点です。

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