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『歎異抄』を読む(その80) ブログトップ

8月4日(土) [『歎異抄』を読む(その80)]

 「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」ということばが印象的で、ここでは師と弟子の問題が扱われているように思えます。それはそうに違いないのですが、もっと大事なことは念仏についてです。「念仏とは何か」という問題がこの章のテーマです。「念仏とは何か」は第5章から第9章までを貫くテーマです。
 何故「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」なのか。それは、念仏は親鸞が弟子に与えるものではなく如来から賜ったものだからです。
 大工の棟梁は自分の持てる技量を弟子に伝授します。だからこそ棟梁であり弟子です。でも、念仏は親鸞が誰かに伝授するものではありません。念仏は如来から伝授されるのです。としますと、そこでは師匠も弟子もありません。ともに念仏を如来から賜ったものたち、いわゆる同朋がいるだけです。
 第2章にこうありました。念仏は阿弥陀仏から釈迦へ、釈迦から善導へ、善導から法然へ、そして法然から親鸞へと受け継がれてきたと。念仏はこのようにリレーされてきただけで、もとをたどると如来から賜ったものです。
 念仏は如来から賜ったものなのに、ともすれば念仏を「わがものがほにとりかへさん」とします。ぼくが念仏をすると思います。「今日一日無事でありますように、南無阿弥陀仏」は、ぼくが念仏することによって、今日の無事を手に入れようとしています。「安らかにお眠りください、南無阿弥陀仏」は、ぼくが念仏することによって、死者を供養しようとしています。みな何かのために「ぼく」が念仏しています。念仏を「わがものがほにとりかへさん」としているのです。

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