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『歎異抄』を読む(その82) ブログトップ

8月6日(月) [『歎異抄』を読む(その82)]

 念仏はまず「聞名」であること、これはすでにお話しました。ぼくらはともすれば念仏は称えるものと考えますが、実は聞こえてくるものだということです。
 どう聞こえるかと言いますと、「そのまま生きていていい」と聞こえる。何も神秘的なことを言っているのではありません。キリスト教やイスラム教では預言者たちが神の声を聞くという神秘的な体験をしますが、ここで言っている「聞名」というのは、ごくありふれた日常の経験です。何度も同じ例を上げて恐縮ですが、「先生の授業おもしろかったよ」という生徒の声がぼくにとっての「なむあみだぶ」です。
 以前読んだ本にこんなことが書いてありました。ある韓国の学者が日本人の宗教性を一番よく表しているのが「夕焼け小焼け」という童謡だと言われたそうです。「夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の 鐘が鳴る お手々つないで みな帰ろ カラスと一緒に 帰りましょ」という歌ですが、なるほど言われてみますと、ここにぼくらの心の故郷があるような気がします。
 この歌詞の中で「帰る」ということばが要となっています。帰るところがある安心感。逆に、一人旅をしていまして、夕暮れ時に列車から流れる景色を眺めていて急に寂しくなることがあります。みんな帰るところがあるのに、空を飛ぶ鳥たちにも帰るねぐらがあるのに、自分は一人ぼっちと感じる寂しさです。
 ぼくらは、「ただいま」と帰ると「おかえり」と言ってくれるところがあるから、安心して生きていくことができます。この「おかえり」こそ「なむあみだぶ」ではないでしょうか。「そのままで救われる」というメッセージではないでしょうか。というように考えますと、「聞名」というのは神秘的でも何でもない、ごくありふれたことです。

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