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『歎異抄』を読む(その90) ブログトップ

8月14日(火) [『歎異抄』を読む(その90)]

 その一方で、死刑はやはり廃止すべきだと思うのです。前に言いましたが、ぼくは学生時代に大島渚監督の「絞死刑」という映画を観て、死刑はこの世からなくさなければならないと感じました。いつからでしょう、死刑が執行されますと、誰がどの拘置所で執行されたかが新聞発表されるようになりました。これまであまりに死刑について目隠しされてきたことが反省され、情報を開示しなければという機運になってきたのです。
 で、例えば「昨日、4名が死刑執行される」といった記事を見ますと、どういうわけか心が揺れるのです。その死刑囚がどんな人か全然知りません。なのに、心が揺れる。少し前に執行された1人は車椅子だったそうです。刑務官がその人を車椅子から立ち上がらせて天井から吊り下げるという光景にはおぞましさを感じざるを得ません。
 もちろん死刑囚になるということは(冤罪でなければ)、人を殺したということです。人を何人も殺したのだから、自分が殺されても仕方がないじゃないかとも言えます。愛する家族を殺された側から言えば、殺した人間が生き延びているのは許せないという気持ちになるのも当然です。
 ここには何ともならない矛盾があります。
 一方では、何の罪もない人を無惨に殺すような人間は殺されても当然だ、それが正義というものだという思いと、しかしその一方で、どんなに罪深い人間であっても、そのいのちを奪うことは誰にも許されないという思いがあります。どんなに悪いヤツでもそのいのちを奪うことは許されないと思うのは、いのちはひとつに繋がりあっているからです。誰かのいのちを奪うことは、自分のいのちを奪うことに繋がるからです。

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