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『歎異抄』を読む(その95) ブログトップ

8月19日(日) [『歎異抄』を読む(その95)]

 ここでもう一度「念仏者は無碍の一道なり」に戻り、「無碍の一道」とはどういうことかを改めて考えてみたいと思います。
 ぼくらの生の旅路には思いもかけない障碍が待ち受けています。順境ばかりとはいきません、逆境に行く手を遮られることもしばしばです。そして順境にあるときは「南無阿弥陀仏」を喜ぶことができても、逆境になるともう念仏などどこへやら、「なんでオレが」とふさぎ込むことにはならないでしょうか。
 例えば病気。
 思いがけなく病に臥すことになったとき、病そのものの苦しみよりも、「こんなはずじゃない」という思いに苦しめられます。「なんであいつがピンピンしていて、このオレが…」という愚痴です。この蟻地獄から抜け出すには、「これが自分であり、これ以外のどこにも自分はない」と受け入れるしかありません。自分に「ウィ」を言うことです。
 しかし、どうしてそんなことができるのか。
 自分でいまの自分を受け入れるしかないのですが、自分に向かって「これ以外の自分はどこにもない」と何度言いきかせようとしても、うまくいくものではありません。それは向こうから聞かせてもらうしかないのです。「そのままでいい」という声として。この声が聞こえてはじめて「そのままの自分」を受け入れることができるのです。
 そしてこの「南無阿弥陀仏」が聞こえさえすれば、「幸福な人は何が起ころうとも幸福である」(ヴィドゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む)のです。

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