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『歎異抄』を読む(その96) ブログトップ

8月20日(月) [『歎異抄』を読む(その96)]

 第7章にだいぶ時間を取ってしまいました。次に第8章を読みましょう。
 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと、云々。
 「念仏を申すことは行でもなく善でもありません。自分のはからいで行うのではないのですから行ではないと言うのです。自分のはからいで善いことをするのではありませんから善ではないと言うのです。もっぱら他力で、自力を離れていますから、行でも善でもありません。」
 この点については、これまで「念仏とは何か」ということでお話してきましたので、目新しいことはありません。念仏は「こちらから」称えるものではなく、「向こうから」聞こえてくるものだから「行者のためには非行・非善なり」ということです。ここでは改めて「他力の念仏とは何か、なぜ他力か」という点について考えておこうと思います。
 近代というのは「自力の時代」と言っていいと思います。何事も自分から、自分の力でというのが近代です。
日本の近代を拓いた明治の一大ベストセラー、福沢諭吉の『学問のすすめ』は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で有名ですね。これは「人間は生まれながらに平等である」ということで、アメリカ独立宣言に出てくることばですが、諭吉先生が言いたいのは、人は本来貴賎上下の別がないはずなのに、現実には賢い人と愚かな人、貧乏な人と豊かな人、身分の高い人と低い人がいるのは何故かということです。それは一人ひとりが学問をするかどうかによって決まるのだと言うのです。もう血筋がいいか悪いかとか、家柄がいいか悪いかではなく、個人がどれだけ努力するかどうかが問われているのだ、それがこれからの社会なのだと諭吉先生は説いているのです。


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